現役セラピストが
アレコレ考える

お客様にも、
セラピストにも、
とことんやさしく。

副業で稼ぎたいなら、はじめやすいリラクゼーションサロン!開業準備やリピート率を上げる方法伝授します。
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Introduction

現役セラピストが
アレコレ考える

“ラシイナ”を運営している椎名 彩(シイナ アヤ)です!

セラピスト歴20年
施術ベッド用のガーゼシーツを販売しながらセラピストとして活動しています。
未経験の方には「稼ぎたかったらセラピストになってはいけない」と常々言っています。

セラピスト歴20年
施術ベッド用のガーゼシーツを販売しながらセラピストとして活動しています。
未経験の方には「稼ぎたかったらセラピストになってはいけない」と常々言っています。

Who is Aya Shiina?

椎名彩ってだれ?

施術ベッド用ガーゼシーツを販売している現役セラピスト。
ネットやテレビにとらわれず、自分の目で、耳で、脳みそで情報を得ることを心がけています。

椎名彩ってだれ?
つながりを大切に

Valuing Connections

つながりを大切に

“ラシイナ”を通してリピートしてくださるたくさんのお客様に出会うだけでなく、たくさんの同業者様にも出会ってきました。

アヤのブログ

Blog

自己紹介

Profile

幼少期

幼少期

幼少期の頃から大人の肩たたきが好きでした。
盆正月に親戚が集まると叔父叔母の肩を順に叩いて回りました。
「ありがとう」
「気持ちよかったよ」
そう言ってもらえると誇らしくて
またその言葉をもらいたくていつでも肩たたきのチャンスをうかがっていました。

会社を経営していた父が亡くなったのは私が10歳の頃。
癌でした。45歳でした。
病気がわかってからはあっという間のことで
幼い私は理解できないまま大好きな父がいなくなってしまった現実を
受け入れるしかありませんでした。

私には兄が二人。
当時高1、中3でした。
母は看護師で女手一つで大学まで出してくれました。

母の口癖は
「看護師になりなさい」
「女だって一人で生きていける経済力をつけなさい」

母の背中を見て育って看護師の道を選ばなかった私。
とはいえ健康に人生を全うすることに関わりたいと思うのは両親の影響を受けているからだと思います。

独身時代

独身時代

末っ子長女でかわいがられて育ったので自己肯定感はもともと高め(笑)
父を亡くしてからは「かわいそう」と思われるのが嫌でとにかく強気に生きてきました。

小中高とどこでもいじめられましたが絶対に屈することはありませんでした。
おなかが痛くても、食欲がなくても絶対に学校は休みませんでした。
、、、今思うとあれはストレスでしたね。

経済的に母を楽にしようと就職率のいい商業高校に進学。
ところが同級生が就職活動を始めると急に働くのが嫌になり大学進学。

私立大学で親のすねをかじりながら海外旅行に行きまくります。
今思うとひどい娘です。
でも自己肯定感がバカ高い女ですから、当然の権利のように親にたかっていました。

大学3年になると就職活動が始まりましたが、私はまったくやらずにアロマの勉強をしていました。
大きい協会の資格を取って卒業したらアロマの講師をしたり販売をしたりしようと目論んでいました。

ところが資格をとっても新卒で採用してくれる会社はありませんでした。
理由は経験がないから。

結局は無資格でもやる気があれば誰でも入れる会社に業務委託契約を結ぶことになります。
東京での2か月に及ぶ新人研修。
研修は無料の代わりに報酬もなし。
技術はもちろん、身だしなみ、接客、整理整頓について厳しい教育を受けました。

そしていよいよ現場に配属されます。
本当の地獄を見ることになります。

自己肯定感が根こそぎなくなるような日々。
役立たずの足手まといを極めていました。

指名を取りまくるキラッキラの先輩たち。
技術研修ではボロボロにこき下ろされていつまでたってもお客様に入れない。
予約はパンパン。
日中はひたすら電話応対と施術部屋のセッティング、洗濯。
営業時間外に先輩の身体を揉んで23時に帰る。
そんな日々を繰り返して初任給の5万円をもらえるまでに6か月かかりました。

当時私はこの仕事を3年以上続ける人はクレイジーだと思っていて
3年選手の大嫌いな先輩に虐げられて過ごしていました。

「あいつが辞めるまで絶対辞めない」

どんだけおなかが痛くても
何個口内炎ができても

絶対に負けないという意地だけで続けていました。

「あいつ」が辞めるとぽっかり穴が開いて辞めることも考えました。
それが24歳の時。

マネージャーに辞めたいというと
店長というポジションを与えてくれました。

今度は売上との戦いがはじまります。

24歳新米店長の私は売上の壁を越えられず割と早めに降格します。
またもや天狗の鼻がポッキリ。。

それからひたむきに働き、サロンの内政を整えバッキバキの鬼店長復帰を果たします。

それからは本社から出される売上目標を達成させるために気を削りました。
数字の分析、スタッフの技術向上、ミーティングや個人面談をしながら
トップの指名数と売り上げを維持することにすべてを捧げていました。
ほとんど休むことなく仕事していた27歳。

がむしゃらに働き、一般的な中間管理職ぐらいの収入も得て充実していました。

妊娠と葛藤

妊娠と葛藤

転機となったのは妊娠・出産。

結婚して半年で妊娠発覚。
若いスタッフしかいなかったサロンで妊娠したのは私が初めてのケース。

誰に相談していいかもわからずとりあえず安定期に入るまで休みました。
それまで9時~21時まで働いていた私。

急に毎日休みになると自分が何のために生きているのかわからなくなりました。
つわりも相まって自己嫌悪の日々。

安定期に入って職場復帰して、いつものお客様の顔を見たときの喜びたるや。

妊娠中は他のスタッフの協力もあって、指名のお客様だけ担当させてもらいました。
とはいえ、元々指名のお客様が多かったので客数も売上も妊娠前とほとんど変わりませんでした。

本当の意味で大きく変わったのは産後です。
産後半年で職場復帰するものの、仕事ができるのは16時半まで。
正直16時半って中盤中の中盤。
そこで抜けるのはめちゃくちゃ後ろめたいし
客数も売上も半分になるんです。

売上=自分の存在価値
そう思ってとにかく売上を上げることにかけてきた私にとって
その現実はとてもつらいものでした。

さらに第2子を産んで1/3、第3子で1/4。
職場における自分の価値がどんどん減っていくことに
情けなさと負けず嫌いが発動して、この状況を脱したいという気持ちが湧いてきました。

その時私がきづいたのは1対1の限界。
1対多数の仕事に切り替えようと惣菜屋になるという夢を持ちます。

15年務めたサロンを辞めて惣菜屋開業の準備をしているときにコロナ禍が到来します。

細々と狭い自宅に置いた施術ベッドで続けていたサロンワーク。
結局ほかの何者にもなれずセラピストのまま生息していました。
大事なお客様のために自分でガーゼシーツを縫って使っていました。

パンデミックが本格化すると世の中は深刻なマスク不足に。
手元に残っていたガーゼでマスクを縫って家の前でマスク売りをしました。
価格は1個1200円。
今なら絶対買わない価格。
ところが当時は素人が作ったマスクが飛ぶように売れました。

夜なべして作ってマスク不足が解消するころにはミシンがけっこう使えるようになっていました。

マスクがいらないならと慣れたミシンでガーゼシーツやガーゼガウンを縫い始め、販売経路になるようにインスタグラムも本格的に始めました。

さらにコロナが落ち着くとサロンワークが忙しくなりリネンの受注DMのやりとりもおいつかなくなってきました。

そこでネットショップを立ち上げて、専属の縫い師さんのご協力をいただき、在庫を持ってガーゼシーツ販売事業を本格的にやっていくことになりました。

全国のサロン紹介

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東村山郡山辺町
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高崎市